二五日拝読 御袖章 五帖第十二通
二五日拝読 御袖章 五帖第十二通
当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧才学もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにその人を摂め入れておきたまふべし。さればこのこころを『経』(観経)には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。さては、わが身のほとけに成らんずることはなにのわづらひもなし。あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことはさらにもつてあるべからざるものなり。しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩をおもひはかりて、仏恩報謝のためにつねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1198頁) 浄土真宗の信心のいわれをくわしく知りたいと思う人は、ことさらに智慧も学識もいりません。ただ自分は罪深いものであると知り、このようなものまでもお救いくださるみ仏は、阿弥陀如来だけであると信じて、ただひとすじに、このみ仏のお袖にすがるような思いで、後生をおたすけくださいとおまかせするならば、み仏は深くお喜びになり、八万四千の光明を放って、その光明の中におさめとってくださいます。
そのことを『観経』には、「光明偏照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と説かれています。ですから、私が仏になることにはなんの心配もありません。なんと世に越えすぐれた本願であり、なんとありがたい阿弥陀如来の光明でしょう。この光明の縁に遇えなかったならば、はかりしれない昔からつくり続けてきた罪のさわりも決して消えることはありません。いまこの光明のはたらきにより、如来のお育てをいただき、他力の信心を得ることができました。この信心も、自分の力でおこす信心ではなく、まったく阿弥陀如来から与えられたものであることがはっきりとわかります。そこで、他力の信心を得た人は、阿弥陀如来のご恩を心にかけ、常に仏恩報謝の念仏を申すべきです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』