二八日拝読 当流聖人章 五帖第十八通
二八日拝読 当流聖人章 五帖第十八通
当流聖人のすすめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。これさらに疑ふべからざるものなり。かやうによくこころえたる人を信心の行者といふなり。さてこのうへには、なほわが身の後生のたすからんことのうれしさをおもひいださんときは、ねてもさめても南無阿
弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1205頁)
親鸞聖人のご教化では、浄土真宗の信心とは、いかに自身の罪が深くとも、自力のはからいを捨て、後生をおたすけくださいと一心に阿弥陀如来におまかせすることです。そのものを、十人は十人、百人は百人、みなことごとく、阿弥陀如来はお救いくださるのです。このことはまったく疑いありません。
親鸞聖人のご教化では、浄土真宗の信心とは、いかに自身の罪が深くとも、自力のはからいを捨て、後生をおたすけくださいと一心に阿弥陀如来におまかせすることです。そのものを、十人は十人、百人は百人、みなことごとく、阿弥陀如来はお救いくださるのです。このことはまったく疑いありません。
このようによく心得た人を、信心の行者というのです。信心を得た後に、自分が浄土に往生させていただくことのうれしさを思いだすときには、寝てもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏すべきです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』
『御文章 ひらがな版 拝読のために』