高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

七日拝読 此方十劫邪義章 一帖第十三通

1-13 此方十劫邪義

(13)
 そもそも、ちかごろは、この方念仏者のなかにおいて、不思議の名言をつかひて、これこそ信心をえたるすがたよといひて、しかもわれは当流の信心をよく知り顔の体に心中にこころえおきたり。そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。しかれば向後においては、まづ当流の真実信心といふことをよくよく存知すべきなり。その信心といふは、『大経』には三信と説き、『観経』には三心といひ、『阿弥陀経』には一心とあらはせり。三経ともにその名かはりたりといへども、そのこころはただ他力の一心をあらはせるこころなり。されば信心といへるそのすがたはいかやうなることぞといへば、まづもろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心にもつぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもつてその身を摂取して捨てたまふべからず、これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。かくのごとくこころえてののちは、弥陀如来の他力の信心をわれらにあたへたまへる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。これをもつて信心決定したる念仏の行者とは申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  [文明第五、九月下旬のころこれを書く云々。]
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1102頁)



 近ごろこの地方の念仏者の中に、根拠のないあやしげな文句で、これこそが信心を得たすがただなどといい、しかも自分は浄土真宗の信心をよく心得ていると思っているものがいます。そのものは、「十劫の昔に阿弥陀如来となられたときに、如来が私たちの往生をも定めてくださったご恩を、忘れないのが信心である」というのです。
 これは大きなあやまりです。阿弥陀如来がさとりを開いて仏となられたことを知ったとしても、私たちが往生することのできる他力の信心のいわれを知らなければなんにもなりません。これより後は、まず浄土真宗の信心のいわれをしっかりと心得るべきです。その信心とは、『大経』には、「至心・信楽・欲生」と説かれ、『観経』には、「至誠心・深心・回向発願心」と説かれ、『小経』には、「一心」と説かれていますが、すべて他力の信心をあらわしたものです。その他の神や仏に心をかけず、二心なく阿弥陀如来に帰命すれば、み仏は光明の中におさめとってお捨てにならないのです。これが信心の決定したすがたです。このように心得た後の念仏は、み仏が信心を与えてくださったご恩に報いる念仏であると思うべきです。このような人を信心が決定した念仏者というのです。
 『御文章 ひらがな版 拝読のために