八日拝読 横截五悪趣章 二帖第四通
2-4 横截五悪趣
それ、弥陀如来の超世の本願と申すは、末代濁世の造悪不善のわれらごときの凡夫のためにおこしたまへる無上の誓願なるがゆゑなり。しかればこれをなにとやうに心をももち、なにとやうに弥陀を信じて、かの浄土へは往生すべきやらん、さらにその分別なし。くはしくこれををしへたまふべし。
答へていはく、末代今の時の衆生は、ただ一すぢに弥陀如来をたのみたてまつりて、余の仏・菩薩等をもならべて信ぜねども、一心一向に弥陀一仏に帰命する衆生をば、いかに罪ふかくとも仏の大慈大悲をもつてすくはんと誓ひたまひて、大光明を放ちて、その光明のうちにをさめとりましますゆゑに、このこころを『経』(観経)には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と説きたまへり。されば五道・六道といへる悪趣にすでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議としてこれをふさぎたまふなり。このいはれをまた『経』(大経・下)には「横截五悪趣悪趣自然閉」と説かれたり。かるがゆゑに、如来の誓願を信じて一念の疑心なきときは、いかに地獄へおちんとおもふとも、弥陀如来の摂取の光明にをさめとられまゐらせたらん身は、わがはからひにて地獄へもおちずして極楽にまゐるべき身なるがゆゑなり。かやうの道理なるときは、昼夜朝暮は、如来大悲の御恩を雨山にかうぶりたるわれらなれば、ただ口につねに称名をとなへて、かの仏恩を報謝のために念仏を申すべきばかりなり。これすなはち真実信心をえたるすがたといへるはこれなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明六、二月十五日の夜、大聖世尊(釈尊)入滅の昔をおもひいでて、灯の下において老眼を拭ひ筆を染めをはりぬ。]
[満六十 御判]
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1115頁)
阿弥陀如来の本願が世に超えすぐれているというのは、よごれきった末法の世で、迷いの罪をつくり続ける私たちを救うためにおこされた、この上なくすぐれた誓願であるからです。
それでは、どのようにこの本願を心得、どのように阿弥陀如来を信じて浄土に往生するのでしょうか。このことを詳しく述べましょう。末法の世に生まれた今の人々は、他の神や仏をたのみとせず、ただひたすら阿弥陀如来に帰命すれば、どれほど罪が深くとも、み仏は大慈悲をもって、光明の中におさめとってくださいます。このことを『観経』には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と説かれています。また、如来の本願の不可思議なはたらきによって、迷いの世界への道をふさいでくださいます。それを『大経』には、「横截五悪趣悪趣自然閉」と説かれています。如来の本願を信じて少しも疑いの心がないならば、たとえ地獄へおちる身であると思っていても、阿弥陀如来の光明におさめとられたものは、地獄におちず浄土に往生する身となるのです。
このように、如来の大慈悲のご恩を常におおいにうけている身ですから、いつも念仏して仏恩に報じなければなりません。これが真実信心を得たすがたです。