九日拝読 数珠章 二帖第五通
2-5 数珠
そもそも、この三四年のあひだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもつて他力の安心決定せしめたる分なし。そのゆゑは、珠数の一連をももつひとなし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。聖人(親鸞)、まつたく「珠数をすてて仏を拝め」と仰せられたることなし。さりながら珠数をもたずとも、往生浄土のためにはただ他力の信心一つばかりなり。それにはさはりあるべからず。まづ大坊主分たる人は、袈裟をもかけ、珠数をもちても子細なし。これによりて真実信心を獲得したる人は、かならず口にも出し、また色にもそのすがたはみゆるなり。しかれば当時はさらに真実信心をうつくしくえたる人いたりてまれなりとおぼゆるなり。それはいかんぞなれば、弥陀如来の本願のわれらがために相応したるたふとさのほども、身にはおぼえざるがゆゑに、いつも信心のひととほりをば、われこころえ顔のよしにて、なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり。この分にては自身の往生極楽もいまはいかがとあやふくおぼゆるなり。いはんや門徒・同朋を勧化の儀も、なかなかこれあるべからず。かくのごときの心中にては今度の報土往生も不可なり。あらあら笑止や。ただふかくこころをしづめて思案あるべし。まことにもつて人間は出づる息は入るをまたぬならひなり。あひかまへて油断なく仏法をこころにいれて、信心決定すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明六、二月十六日早朝ににはかに筆を染めをはりぬのみ。]
この三、四年の間、ここに集まる念仏者を見ていると、他力の信心を決定している様子がありません。念珠一連を持つ人もなく、み仏をうやまう気持ちが欠けているようです。親鸞聖人は、念珠を捨ててみ仏を拝めとおっしゃったことはありません。もちろん、浄土往生のためには、念珠を持たなくても、他力の信心一つで十分です。しかし、住職たるものは、袈裟をもかけ、念珠も持って礼拝し、み仏をうやまう気持ちをおもてに出してもよいでしょう。そのことを縁として、真実信心をいただいた人は、かならず口に念仏を称え、またふるまいにも信心を得ているようすがあらわれるものです。しかし今、真実信心を得ている人はいたって少ないように思われます。
それは、み仏の本願の尊さをわが身に受けとっていないからです。信心についてよく心得ているような顔をして、なにを聞いてもしっかり耳に入らず、ただ人まねばかりをしているというありさまです。これでは自分の往生もあやうく、ましてご門徒やお同行の教化などできるはずはありません。そのような心では、このたびの浄土往生もかないません。なんとも気の毒なことです。よくよく考えてください。人間はまことにはかないものです。決して油断をせずに、仏法を聴聞して信心を決定するように心がけるべきです。