十日拝読 易往無人章 二帖第七通
易往無人章 二帖第七通
しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明六年三月三日これを清書す。]
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1118頁)
人間に生れることは五戒をたもった功徳によるのであり、まことにまれなことです。しかし、人生は短くはかないもので、たとえ栄華をほこっても、盛者必衰会者定離のならいで久しく続くものではなく、しかも老少不定なのですから、人の世はあてにはなりません。ですから私たちは他力の信心を得て、浄土往生を願うべきなのです。
その信心を得るには、智慧も学識も必要ではなく、貧富や善悪や男女といった違いも一切関係なく、ただ自力のはからいを捨て、二心なく阿弥陀如来をたのむばかりです。み仏はこのように信じるものを光明の中におさめとって、命が終わればかならず浄土に生れさせてくださるのです。この信心一つで浄土に往生することのたやすさから、「安心」というのです。『大経』の「易往而無人」というのは、信心を得れば浄土に往生するのは易しいが、信心を得る人がまれであるから、浄土には往きやすいが人がいないということです。仏法をよく聞いて、なんのはからいもいらない信心のいわれを知り、浄土往生をとげるよう心がけなさい。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』より 大意