8月 掲示法語更新
掲示法語を更新しました。
己れに願いはなくとも 願いをかけられた身だ
私たちは「私がどうしたいか」「私はどうすればいいのか」ということにいつもとらわれています。しかし、浄土真宗という教えは、「阿弥陀さまという仏さまが私をどう見ているのか」「仏さまは私をどうしたいのか」ということを聞いていく教えです。
親鸞聖人は阿弥陀さまの願いを
「救いようのない私(悪人正機)を浄土に生れさせて(往生浄土)救いたいという願いである(他力本願)」と見抜かれました。
私たちは誰もが仏さまに願われた命なのです。この阿弥陀さまの願いを「本願」といいます。
念仏となって 私の口から 現れて下さる み仏のはたらき
「阿弥陀さまがおられますよ」といっても阿弥陀さまは目に見えませんので、そう簡単に信じられるものではありません。目に見えないものは信じられないというのが普通のことでしょう。そもそも阿弥陀さまは本願に「名前の仏になってあなたに聞こえ、あなたに称えられる仏になる」と誓われています。
「なもあみだぶつ」と聞こえるのは阿弥陀さまの「はたらき」によります。「なもあみだぶつ」と声に出すのも、阿弥陀さまの「はたらき」です。
桜を咲かせるのが春というはたらきで、紅葉は秋のはたらきであるように、念仏は仏さま願いが成就した「はたらき」なのです。