高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

十五日拝読 毎月両度章 四帖第十二通

十五日拝読 毎月両度章 四帖第十二通

 そもそも、毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり。しかれば往古より今にいたるまでも、毎月の寄合といふことは、いづくにもこれありといへども、さらに信心の沙汰とては、かつてもつてこれなし。ことに近年は、いづくにも寄合のときは、ただ酒・飯・茶なんどばかりにてみなみな退散せり。これは仏法の本意にはしかるべからざる次第なり。いかにも不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべきところに、なにの所詮もなく退散せしむる条、しかるべからずおぼえはんべり。よくよく思案をめぐらすべきことなり。所詮自今以後においては、不信の面々はあひたがひに信心の讃嘆あるべきこと肝要なり。
 それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。かくのごとくよくこころえたる人は、まことに百即百生なるべきなり。このうへには、毎月の寄合をいたしても、報恩謝徳のためとこころえなば、これこそ真実の信心を具足せしめたる行者ともなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  [明応七年二月二十五日これを書く。 毎月両度講衆中へ 八十四歳]
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1183頁)


 毎月二度の会合をするのはなんのためかといえば、自身が浄土に往生する、その信心を得るためです。ところが、その信心について話し合うことはまったくなくて、近ごろは飲み食いだけして帰っています。これは仏法の本意にかなっていません。信心を決定していない人々は疑問とするところを問いただして、信心の有無を話し合うべきなのに、なんの得るところもなく帰ってしまうのでは、会合した意味がありません。これからは、信心を決定していない人々はお互いに信心について話し合うことが大切です。
 そもそも浄土真宗の信心とは、いかに自分の罪が深くとも、自力のはからいを捨て、二心なく阿弥陀如来に帰命し、後生をおたすけくださいと如来におまかせすることです。その衆生を、如来がことごとくお救いくださることは疑いありません。このように信心のいわれをよく心得た人は百人が百人、みな往生できるのです。その上で毎月外剛をしても、仏恩報謝のためと承知するならば、それこそ真実信心を得た行者といえましょう。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』より