高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

三〇日拝読 当流観化章 五帖第二二通

三〇日拝読 当流観化章 五帖第二二通

 そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて、極楽に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ、他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかに摂めおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
                       [釈証如](花押)
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1207頁)


 浄土真宗のみ教えをくわしく知って、浄土に往生しようと思う人は、まず他力の信心を知らなければなりません。他力の信心は、この罪深い私たちのような凡夫の身が、たやすく浄土に生まれるための用意なのです。
 他力の信心とは、自力のはからいを捨て、ただひとすじに阿弥陀如来に帰命して、おたすけくださいとおまかせすることであり、その信心がおこるとき、かならず阿弥陀如来は摂取の光明を放って、命のあるかぎりはその光明の中におさめとってくださるのです。それが、私たちの往生が決定したすがたです。
 ですから南無阿弥陀仏とは、私たちが他力の信心を得ているすがたであり、信心とは、南無阿弥陀仏のいわれをあらわすすがたです。私たちが他力の信心を決定すれば、浄土に往生するkとおはまったく疑いありません。
 ああ、なんとすぐれた阿弥陀如来の本願でしょう。この見仏のありがたい御恩をどのようにして報じるかといえば、ただ寝てもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えて仏恩を報じるのです。その称えるこころは、み仏がお救いくださるありがたさ、尊さを思って、それを喜ぶこころであると思うべきです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』