五日拝読 睡眠章 一帖第六通
五日拝読 睡眠章 一帖第六通
そもそも、当年の夏このごろは、なにとやらんことのほか睡眠にをかされて、ねむたく候ふはいかんと案じ候へば、不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候ふ。まことにもつてあぢきなく名残をしくこそ候へ。さりながら、今日までも、往生の期もいまや来らんと油断なくそのかまへは候ふ。それにつけても、この在所において以後までも信心決定するひとの退転なきやうにも候へかしと、念願のみ昼夜不断におもふばかりなり。この分にては往生つかまつり候ふとも、いまは子細なく候ふべきに、それにつけても、面々の心中もことのほか油断どもにてこそは候へ。いのちのあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候ふ。よろづにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じ候へ。明日もしらぬいのちにてこそ候ふに、なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ。命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、御こころえあるべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。
この障子のそなたの人々のかたへまゐらせ候ふ。のちの年にとり出して御覧候へ。
[文明五年卯月二十五日これを書く。]
今年の夏は、なぜかことに眠気におそわれて、このように眠いのはいったいどうしたことかと考えてみますに、これはきっと浄土に往生するときが近づいたのではないかと思われます。本当にどうしようもなく、またなごり惜しいことです。
しかし、私は今日までも、往生のときが今にもくるかと、油断せずにその心構えはしていました。それにつけても、この土地で、私の亡き後も信心を決定する人たちが、これから後も続いてくださるようにと、いつも心から願っているのです。私が往生することについては、なんの疑いもありませんが、あなたがたの心には、大いに油断があるように思います。命のあるかぎり、私たちは、いつ往生のときがきてもよい心構えで生きるべきです。しかし、あなた方はその心構えが十分にできていないように思います。
明日をも知れないはかない命です。命が終わってからでは、なにをいってもむなしいことです。命のある間に疑いがはれなかったならば、きっと後悔するばかりでしょう。どうぞ、十分お考えになってください。