配布法話 「除夜の鐘」
今年は除夜の鐘をつきに来られた子どもさんに、お菓子(飴かチョコ)をプレゼントしました。
いつまでも残る思い出になれば良いなあと思います。
例年になく沢山の方がおまいりされて行列ができていました。
SNSの効果かな??
2023年の大晦日にもつきに来てくださいね。
この配布法話は除夜の鐘をついてくださった皆さんにおくばりしました。
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除夜の鐘
除夜の鐘
除夜の鐘は、一年の煩悩を払うためにつくと思われがちですが、宗派によって考え方には違いがあるようです。
一念寺は浄土真宗のお寺です。浄土真宗をひらかれた親鸞聖人は、「正像末和讃」に「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず」とお示しです。「煩悩は無数のチリのように私にみちみちている。その煩悩によって、愛するものには執着し、そうでないものには憎しみを持ってしまうような私の心の凸凹としたすがたは高く切り立った山のようだ」というような意味です。
俗に「煩悩の数は百八個」と言いますが、親鸞聖人が仰(おっしゃ)るには百八どころではなくチリのように多いのだそうです。それが私にみちみちているのだから、大晦日に鐘をついた程度(ていど)のことで払えるはずがありません。
それどころか、親鸞聖人はご自身のことを煩悩成就・煩悩具足の身であると見つめていかれました。潔白な私に外から煩悩がひっついてくるのではなく、私自身が煩悩で成り立っている、というのが親鸞聖人の人間観です。
では、払えない煩悩が私に満ちているのに、除夜の鐘をつく意味はあるのでしょうか?
『大無量寿経』には「正覚大音 響流十方」、つまり「仏さまがさとりをひらき、どんなあなたでも救うぞという教えが大きな音のように世界中に響きわたる」と説かれています。
お寺の鐘の音を、煩悩がみちみちている私を「そんなあなただからこそ私は捨てておけない。必ず救うよ」という仏さまのお慈悲の叫び声なのだと思って聞いてほしいと思います。
新たな年を迎えても、自分の心が清い心になることは決してありません。だからこそ、そんないつ暴走するかわからない煩悩を意識して、できるかぎりみんなと幸せに生きていけるように、一歩一歩、ともに歩んでいきましょう。