高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

二〇日拝読 八万の法蔵章 五帖第二通

二〇日拝読 八万の法蔵章 五帖第二通


 それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。されば聖人(親鸞)の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1190頁)


 釈尊がお説きになった教えをすべて知っているとしても、後世のことを知らないものは愚者であり、たとえ文字一つ知らないとしても、浄土に往生するいわれを知るものは、智者であるといいます。ですから、浄土真宗では、たくさんの聖教を読んでいろいろなことを知っていても、信心一つでたすかるといういわれを知らなければ、むなしいことだと思わなければなりません。
 親鸞聖人のお言葉にも、どんな人も、阿弥陀如来の本願を信じなければ、決してたすかることはない、とあります。ですから、どういう人であろうと、自力にたよることをやめて、おたすけくださいと二心なく深く阿弥陀如来を信じおまかせするならば、十人は十人、百人は百人、みな浄土に往生できることは、まったく疑いありません。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』より