二四日拝読 一切の聖教章 五帖第九通
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけまし
ますこころなり。これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふ
こころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1196頁)
浄土真宗の信心というのは、南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞き開くことです。
この南無阿弥陀仏の六字は、南無と帰命すれば、ただちに阿弥陀仏がお救いになるということです。ですから、南無という二字は帰命であって、衆生が自力にたよることをやめ、阿弥陀仏におまかせするということであり、その衆生を阿弥陀仏がみなもらさずお救いになるということです。
このように、南無とおまかせする衆生を阿弥陀仏がお救いになるという道理ですから、南無阿弥陀仏の六字は、私たちが衆生が平等に救われるいわれであるということがわかります。
そこで、他力の信心を得るということも、南無阿弥陀仏の六字のいわれを心得るということであり、一切の聖教も、ただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせるためのものであると思うべきです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』より