掲示法語・配布法話 なもあみだ あきることなく よばふ声
なもあみだ あきることなく
よばふ声 ※よばふ=よび続ける
仲の良い高齢のご夫婦がいました。旦那さんは寡黙な仕事人間で、奥さんはよく話す明るい人でした。
ある寒い日の夜。奥さんはお風呂場で倒れてしまいました。そして、残念なことに医師から「もう目が覚めることはないでしょう」と告げられてしまいました。
旦那さんは毎日病院にお見舞いに通いました。しかし、奥さんは何の反応も示しません。旦那さんの気持ちも次第に落ち込んでいきました。毎日だったお見舞いは隔日となり、三日、五日と間隔が離れていきました。
ある朝、旦那さんは朝食にいつも通りコーヒーを淹れようと思いました。しかし、コーヒーは空になっていました。棚の在庫もなくなっています。その日まで旦那さんは一度も自分でコーヒーを買ったことがありませんでした。そして、奥さんはコーヒーを飲まない人でした。
旦那さんは空になった入れ物を手にもちながら、飲まないコーヒーを自分のために買い続けてくれていた奥さんを想いました。コーヒーを切らさないでいてくれたことにお礼を言ったこともないような無愛想な自分に、いつも明るく話し掛けてくれていた奥さんでした。旦那さんは情けない気持ち胸がいっぱいになりました。そして、それと同時に奥さんへの感謝の気持ちがあふれてきました。
それからというもの、旦那さんはできるだけ毎日奥さんのお見舞いに行くようになりました。奥さんは相変わらず反応を示しません。それでも、旦那さんは奥さんの手を握り、毎日たくさん話し掛けるようになりました。
世間では、何かをすればそれに見合ったものが返ってくるのが良いとされます。しかし、それはどこまで行っても取り引きの理屈です。本当に心ゆたかなものは、取り引きには無いような気がします。本当のゆたかさは見返りを求めない心にこそあるのではないでしょうか。
見返りを求めない人は、寝たきりの人に話し掛け続けることができます。何も持たずに困っている人に手を差し伸べることができます。
お経には、阿弥陀仏の見返りを求めない救いが説かれています。ずっと昔から、阿弥陀仏は見返りを求めずに、ただただこの私を救おうと「ナモアミダブツ」とよび続けていたのです。
南無阿弥陀仏 副住職 保田正信
【聖典のことば】
「極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼まなこを障さへて見たてまつらずといへども、大悲、倦ものうきことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり」(正信偈/『註釈版聖典』207頁)