高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

掲示法語・配布法話 み教えを 聞いて私は 「愚者」になる




掲示板法語と連動した解説法話です☺️
なんとなんと、今回は坊守が書いた法話です✨

配布法話は門前に設置していますので、お近くの方は手に取って読んでみてくださいね✨


【み教えを 聞いて私は 「愚者」になる】

 坊守である私の仏教との出会いは二九歳の時。夫の車でかかっていた梯實圓和上の法話CDでした。
「人生を素晴らしいものだと思っていると、必ず『こんなはずじゃなかった』と裏切られます。人生の本質は苦なのです」という言葉から始まり、「苦」の解説として、生老病死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦という四苦八苦について話されるご法話です。その法話を聞いて、とても感動しました。
 当時の私は、「苦しみ」というものは個人的なもので孤独に抱えていかなければならないものだと思って疑いませんでした。法話を聞いて、初めて「苦しみ」に名前が付いていたことを知りました。「私だけの苦しみだ」と思っていたものは二五〇〇年も昔から説かれてきた普遍的なものだったのです。自分だけではなく、人類がみんなで抱えてきたんだという事実を知って安心しました。
 和上さまは、
「苦は煩悩によって生まれる思い通りにならないこと」
とお話しされました。私の苦しみは、思い通りにしたいという煩悩から自らが生み出したものだったのです。
 その後、夫といろいろなご法話を聞きに行きお聴聞重ねました。その中で、自分の中に変化が起こりはじめました。
 それまでの私は、失敗や嫌なことを避け、人生は上手に立ち回ることで理想に近づいていくべきものなのだと考えていました。よりどころは自分の経験や知識だけ。その経験や知識から作り上げた「自分なりの正義」を握りしめて私は生きていたのです。
 そしてその握りしめた正義の拳で他人を攻撃し、立ちはだかる壁を叩き、拳を眼前にかざしてそれを通して物事を見ては、向き合いたくない現実を避け、つついて拳が痛ければ進むことを止めていたのです。まるで挙動のおかしなスーパーマンのようです。「何でも思い通りにしたい」というわがままで作り上げた「正義の拳」を振り回していたのです。
 お聴聞するたび、少しずつ少しずつ、自分の正義の拳を眺めることができるように成りました。それでも、いまだに拳を開いて正義を手放したり、攻撃に使わなくなったりすることは難しく、お聴聞が終われば、すぐに怒りを燃やしてしまう私であることは変わっていません。
 今も時々、正義の拳で夫をしばいています。そして、お聴聞をして、トゲのある言葉で傷つけてしまったことに気づかされ静かに反省しています。
 この拳が開かれて本当にほどけるのは、きっとこの人生が終わり、お浄土に生まれた時なのでしょう。
 親鸞聖人のみ教えを通して、阿弥陀さまのお心を聞くたびに「そうでした、そうでした」と頭が下がり、お念仏が出る日々です。阿弥陀さまの智慧の光に照らされて、自らの愚悪に気づかされ、愚者にならせていただきます。

南無阿弥陀仏 坊守 保田美果

【聖典の言葉】
「浄土宗の人は愚者になりて往生す」
『親鸞聖人御消息』(註釈版七七一項)