高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

掲示法語・配布法話 「当たり前」は不満の日々  「有り難い」は感謝の日々


掲示板の法語の解説法話です☘️
寺報は門前に設置していますので、お近くの方は手に取ってみてくださいね
【掲示法語】
「当たり前」は不満の日々 
「有り難い」は感謝の日々

【法話】
 秋の彼岸会では、若院と坊守がギターと歌でご法話をさせていただきました。ユニット名は「共命之鳥(ぐみょうしちょう)」です。共命之鳥はお浄土に居る六種類の鳥の一つで、一つの体に二つの頭を持つ鳥です。
 共命之鳥について、『仏本行集経』というお経に説かれているお話をご紹介します。
 昔、ヒマラヤ山脈のふもとに一羽の共命之鳥が住んでいました。一方の頭の名をカルダ、もう一方をウバカルダといいました。
 ある日、ウバカルダが眠っている時にカルダは美味しくて栄養のある果実を見つけ、お互いの栄養になると思って食べました。ウバカルダを起こすことは可哀想だと思ったので起こしませんでした。
 しかし、目覚めたウバカルダカルダは勝手に果実を食べたカルダに激怒しました。そして、ウバカルダはカルダを憎悪するようになりました。
 後日、今度はカルダが眠っている時にウバカルダが毒の花を見つけました。ウバカルダは「この毒を食べてカルダを殺してやろう」と思い、毒の花を食べてしまいました。
 からだの異変に気づいたカルダは目覚め、「私は、お互いに利益があると思って果実を食べたのに、あなたは憎悪の思いを起こして毒を食べた。怒りや(瞋恚)おろかさ(愚痴)やむさぼり(貪欲)には何の利益もない。自己中心的な心は自らを傷つけ、そして他をも傷つける」そう言うと、カルダとウバカルダは死んでしまいました。
 もし、ウバカルダがカルダに感謝する思いを持っていれば、悲劇は起こらなかったでしょう。しかし、残念ながらウバカルダは感謝を忘れ、悲劇を起こしてしまいました。
 なぜ、ウバカルダは感謝を忘れてしまったのでしょうか?
 私は、ウバカルダにとってカルダがあまりにも身近で「当たり前」の存在だったからなのではないかと思います。
 相手が身近で、当たり前の存在だと思えば思うほど、相手の嫌なところは見えやすくなり、相手のしてくれたことには気付き難くなります。そして反対に、自分がしたことは大きく感じてしまいます。この説話は「身近になるほど危うくなる」という人間関係の本質をあらわしているように思えます。
 「当たり前」の反対は「有り難い」だといいます。一つの身で生まれてきたカルダとウバカルダは、前世ではよほどの縁があったのでしょう。本当はお互いが、有り難く、かけがえのない存在だったのです。
 聖典のはじめに載っている「三帰依文」には「人の身で生まれることは難しいことだ」とあります。私たちは、人の身で生まれ、今生で出あい、共に生き、お念仏に出あっています。これは、どれほど稀で「有り難い」ことなのでしょうか。
 ついつい「当たり前」と思ってしまいがちですが、聞法とお念仏のひぐらしの中で、「当たり前」と思っていた人々や何気ない日々について、「有り難い」と気づかされ、よろこんでいけたとしたら素晴らしいことですね。
南無阿弥陀仏  夫婦うた法話 共命之鳥