高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

掲示法語・配布法話 案じていた私が 案じられていた




掲示板の法語の解説法話です☘️
寺報は門前に設置していますので、お近くの方は手に取ってみてくださいね

【掲示法語】
案じていた私が 案じられていた



 先日、ご法話のご縁でお参りしたお寺でのことです。そのお寺にはキャバリアという犬種のかわいいワンちゃんがいました。実は私の実家でもかつて同じ犬種を飼っていたのです。愛犬たちのことを懐かしく思い出すご縁でした。
 我が家で飼っていたのは、母犬の「トロロ」と娘の「コンブ」で、二匹の名前を合わせると「とろろ昆布」になります。トロロはおっとりした性格でコンブは甘えん坊。私たちにとってかけがえのない存在でした。
 しかし、やはり諸行は無常です。トロロは老犬になり、やがて亡くなりました。そして、母の死がよほどショックだったのでしょう。コンブも急激に元気を失い、「お母さんに会いたい」と言うかのように、その命を終えていきました。コンブのその姿を通して「動物にも人間と同じように愛情や悲しみがあり、それに苦しむ」と深く感じました。
 現代ではペットは家族同然の存在です。ペットの死後、「動物は死んだらどうなるの?」と気になる人がとても多いようです。
 しかし、仏教は人間に説かれた教えですので、そこに説かれているのは人間の成仏道です。動物の成仏については説かれていません。もちろん、命が輪廻していくことを思えば、私もまたかつては動物だったのですから、すべての命は輪廻の果てに必ず救われていきます。しかし、そう聞いてもご家族は「一緒に生きた大切な命なのに、すぐには成仏できないんだ…」と受け取ってしまい、つらい思いをしてしまうかもしれません。
 かといって、凡夫である私が、動物であろうと人間であろうと、他者の往生成仏を判断することはできません。
 あくまでも私自身の味わいなのですが、私は愛犬たちを「私を仏前に誘い続ける菩薩さまだ」と受け取っています。
 トロロとコンブは、老病死という生き物としての本当のすがたを私に見せてくれました。そして、私は今も彼女たちを思い、お念仏し、手を合わせています。
 私に本当のことを教え、念仏させ、手を合わせさせるはたらきは、まさしく菩薩さまのはたらきだと思うのです。
 「ペットは救われるだろうか?」という問いは、外向きの視線からの問いです。その視線を自分に向ければ、彼女たちを偲んで南無阿弥陀仏に出あっている自分がいます。私がお念仏に出あっているのは「問い」ではなく「事実」です。
 私を仏前に導いてくれるすべての他者を、仏さまや菩薩さま、善知識さまとして受け取れるということは、浄土真宗の教えの素晴らしさの一つだと思います。
 そう受け取ったとき、死者を案ずる私こそが、実は案じられていたのだと気付かされるように思うのです。
南無阿弥陀仏 保田正信
【聖典のことば・ご讃題】
(20)安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし
(『浄土和讃』/『註釈版』560頁)