掲示法語・配布法話 お慈悲の中で 泣きたいだけ 泣きましょう
一念寺報 5月号
【掲示法語】
お慈悲の中で
泣きたいだけ
泣きましょう
今回は坊守が法話を担当いたします。
仏教は「苦しみを解決する教え」なのですが、浄土真宗は「苦と共に生きていくことこそが人生だ」と教えてくれる教えでもあるように思います。「苦と共に生きる」というのは「苦を無くしてしまう」とも「苦を受け入れる」とも少し違います。
昨年度、私はPTAの副会長を務めました。慣れない仕事に戸惑いつつも、先生方に相談し協力しながら何とかこなしていました。
年度末が近づいたころ、特にお世話になった先生と「今年は大変な1年でしたね。これからも前向きに頑張りましょう」と励まし合いました。その先生は、浄土真宗の僧侶でもあり、私の坊守としての状況にも理解を示してくださった先生でした。
そうやって励ましあった日の数日後、突然その先生の訃報が届いたのです。交通事故で、とのことでした。
PTA役員も先生方も「子ども達に伝える準備ができるまでは、普段通りに振舞おう」と努力しました。でも、そうして気を張っていても、何をしていても悲しさが込み上げてきてしまうのです。1人になると不意に涙がこぼれてしまうようなことが続きました。
しばらくしてから、先生方から子供たちに事実を伝えました。号泣してしまう子もいました。わが子もまた「先生は優しかった。ショックだ」と悲しんでいました。
そんなとき、たまたま学校心理士の大草正信さんの記事が私の目に留まりました。
『VERY』という雑誌の記事です。
要約すると、「子供が泣きたいときは『悲しいね。泣きたいだけ泣いていいよ』と気持ちを言葉にして、気が済むまで泣かせてあげる。気が済むまで泣ききると立ち直れる」「死を悼む態度は十人十色。ポジティブな言葉によって悼み方を否定せず、子どもの悼み方を肯定して受け止めてあげる」「十分に悲しむことができたら回復できる。つらい・苦しいという気持ちは5日くらいで沈静化して、普段の生活に戻れるのが健康な人の経過。それがうまくいっていないと感じたら、専門家に相談する」というようなことが書かれていました。
記事の通り、私自身5日ほどで少しずつ気持ちが落ち着き、子供の仕草に可愛さを感じて、一緒に笑える時間が増えていきました。
近しい人の死についての受け入れ難さは完全には消えません。消そうとする必要も無いでしょう。その人を偲び、悲しさと共に生きていくのが、残された私たちの人生なのではないでしょうか。
今は、職員室を訪れた時の先生の静かな笑顔を思い出し、涙ではなくお念仏がこぼれます。お念仏に生きた先生が、今は私にお念仏を申させようとされているように思います。
阿弥陀さまは、苦とともに生きるしかない私を見抜き、そんな私だからこそ必ず救うと願ってくださいました。だからこそ、阿弥陀さまのまなざしは、いつでも限りなく優しいのでしょう。
浄土真宗の教え、阿弥陀さまのお慈悲を聞くことで、苦は解決できるものではなく、人生と共にあるものだと知らされたことは、私にとってこの上ないご利益でした。
私たちは、お慈悲の中で泣きたいだけ泣くことができるのですね。
一念寺坊守
【聖典のことば(ご讃題)】
「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」(正像末和讃/『註釈版聖典』606頁)