掲示法語・配布法話 本当のうれしさは 恥ずかしさと共にある
寺報は門前に設置していますので、お近くの方は手に取ってみてください
一念寺報 6月号
【掲示法語】
本当のうれしさは
恥ずかしさと共にある
【法話】
浄土真宗の生活は、「慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)」の生活であると言われます。
慚愧とは、己のあり方を自ら恥じ、申し訳ないと思う心のことです。
誰しも、恥ずかしい思いはしたくないものです。しかし、お経には実はこの「恥ずかしい」と思う心こそが、衆生を助ける大切な心なのだと説かれています。
私の友人が打ち明けてくれた話です。
小学生の頃、友人は友だちが持っていたカッコいいキャラクター文具が羨ましくて、ついつい盗んでしまったのだそうです。
しかし、「カッコいいな」と思ったのはほんの束の間で、すぐに「どうしよう!」という思いが湧いてきました。もちろん、それを学校で使うわけにはいきません。かといって言い出す勇気もなく、ただただ月日が経ってしまいました。常にビクビクしながら過ごしましたが、不思議なことに学校では文房具が盗まれたという話にはならず、犯人探しも行われないまま、結局その文具は返せずに卒業を迎えてしまいました。
けれども友人の心には、「ああ、友だちに悪いことをしてしまった……」という思いだけが残り、ことあるごとに申し訳なさが湧いてきたのだそうです。
そして先日、その頃の同窓会が開かれ、何十年ぶりかにその友だちと再会しました。意を決して、友人は「実はあのとき、文房具を盗んでしまったんだ」と告白しました。
すると、その友だちの返事は意外にも、「うん。知ってたよ」というものでした。
その答えを聞いた友人は、それまで抱えていた罪の意識が一転し、「恥ずかしい」という思いに変わったのだそうです。そして、知っていたにもかかわらず、ずっと友だちでいてくれたことに感謝しました。
それ以来、ふたりは再び仲良くなり、今でもたまに会っているそうです。
罪の意識だけでは慚愧の心にはなりません。己の罪深さを見抜かれていたことに気づかされたとき、そこに初めて慚愧の心が生まれます。見抜かれていたのに、許され、受け入れられていたと知らされたとき、そこに歓喜が生まれるのです。
罪や恥ずかしさが、やさしさに包まれたとき、そこには深いよろこびがあります。
友人の話を聞き、私はどうだろうかと考えてみました。やはり、私も罪を持っているなと思いました。
そして、知らずに犯してきた罪はその何十倍、何百倍もあるのだろうと思いました。私が気づける罪など、仏さまが見抜かれた罪に比べれば氷山の一角にすぎません。
罪を罪とも知らず、十分に慚愧することもできないまま過ごしている私がいるように思います。
それでも、そんな私を知り尽くし、「大丈夫、そのまま救うぞ」と呼びかけ続けてくださっている仏さまがおられます。
その仏さまが阿弥陀さまであり、その呼び声が「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。
南無阿弥陀仏
一念寺 保田正信
【聖典のことば(ご讃題)】
「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ」
(『正像末和讃』/『註釈版聖典』617頁)