掲示法語・配布法話 一切の救いに 「私」のすがたを聞く
七月の法語法語&法話です✨
【掲示法語】
一切の救いに
「私」のすがたを聞く
【解説法話】
夏といえば「お盆」です。今回は、お盆の由来となった『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』に説かれている、目連尊者(もくれん)の物語をご紹介いたします。
目連尊者は、お釈迦さまの弟子の中でも特に神通力(不思議な力)に優れた方でした。
ある日、目連尊者は神通力を使い、先に亡くなった母の様子を見てみました。すると、母は餓鬼道に堕ち、痩せ細り、水も食べ物も口にできない苦しみの中にあったのです。
目連尊者は「何とか母を救いたい」と、神通力で食べ物を餓鬼道へ送ろうとしました。しかし、母がそれらを食べようとすると、それらは炎となって消えてしまうのでした。
途方に暮れた目連尊者は、お釈迦さまに助けを求めました。お釈迦さまは、目連尊者の母が過去に犯した罪のために餓鬼道に堕ちたのだと仰いました。その罪の内容には諸説ありますが、一般には、貧しい暮らしの中で、息子だけは飢えさせまいと、困っている人に食べ物を施すことを惜しんだことではないかといわれています。
目連尊者は、自分を育てるために罪を犯し、餓鬼道に堕ちてしまった母をどうしても救いたいと願い、お釈迦さまに教えを請いました。するとお釈迦さまは、
「夏の安居(あんご・僧侶が一か所に集まり勉学に励む期間)の最終日、僧侶たちへ食べ物を布施しなさい。その功徳によって、母親は苦しみから救われるであろう」
と説かれました。
目連尊者はその教えに従い、安居の最終日にたくさんの食べ物を僧侶たちに布施しました。すると、その功徳によって食べ物が母に届き、母は餓鬼道の苦しみから救われたのです。
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私は、このお話で本当に救われたのは、目連尊者の母ではなく、目連尊者自身だったのではないかと思っています。
目連尊者が餓鬼道の母の姿を見たとき、そこにはきっと、母以外にも多くの餓鬼たちが母と同じように苦しんでいたはずです。それにもかかわらず、目連尊者はお釈迦さまに「餓鬼道にいる餓鬼たちみんなを救ってください」とは訴えませんでした。母を愛するあまり、他の餓鬼たちの苦しみに目を向けることができなかったのか、あるいは、見て見ぬふりをしてしまったのかもしれません。
目連尊者の母が「私の息子だけ飢えさせたくない」という思いから施しを渋ったように、目連尊者もまた「私の母だけは救ってほしい」と執着して苦しんでいたのです。
お釈迦さまは、その執着心を見抜き、執着の苦しみから救うために、無関係な僧侶たちへの広い布施を行わせ、目連尊者自身の執着心をほどかれたのではないでしょうか。
お盆は、一般的には先祖供養の行事と受け取られています。もちろん、ご先祖さまを大切にすることはとても尊いことですが、仏教は「自分の先祖」という特定の人だけを救う教えではありません。仏教は、十方衆生、生きとし生けるものすべてを救う教えです。
そして、その教えを聞きながら、その生きとし生けるものの中で、「今、ここで」救われるべきなのはこの私自身だったと気付かされていきます。
お盆を通して、仏さまはこの私の煩悩を見抜き、私こそ救おうとしてくださっているということを味わっていきたいと思います。
【聖典のことば(ご讃題)】
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり」
『歎異抄』第五条
法話掲載の寺報は門前に設置していますので、お近くの方は手に取ってみてくださいね