高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

二六日拝読 無上甚深章 五帖第十三通

二六日拝読 無上甚深章 五帖第十三通

 それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
 そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへ
ましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(『浄土真宗聖典─註釈版─』1200頁)


 南無阿弥陀仏の名号は、わずか六字ですから、それほどのはたらきがあるとは思えませんが、この六字の名号にはこの上ない深い功徳や利益があり、その広大なことははかりしれません。信心を得るということも、この六字にあるのであり、それ以外にあるわけではありません。
 善導大師は、南無阿弥陀仏の六字を釈して、帰命と発願回向と行という三つのいわれを示されました。これは、私たちのような煩悩をそなえた身であっても、阿弥陀如来に帰命すれば、かならずお救いくださるということを述べられたものです。「帰命」とは、おたすけくださいとおまかせすることであり、「発願回向」とは二心なく阿弥陀如来におまかせする衆生に、この上ない功徳を与えてくださることです。
 そのため、私たちがはかり知れない昔からつくり続けてきた罪のさわりはことごとく消え、浄土に生まれてさとりをひらく仲間に入ることができるのであり、そこで南無阿弥陀仏の六字は、私たちが浄土に往生するいわれをあらわしていると知ることができます。このように信心とは、六字の名号のいわれをよく心得ることをいうのです。この六字のいわれを心得たものを他力の信心を得た人というのです。南無阿弥陀仏の六字には、このようなすぐれたいわれがあるのですから、疑いなく深く信じるべきです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』