高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

十四日拝読 機法一体章 四帖第十一通

十四日拝読 機法一体章 四帖第十一通

 南無阿弥陀仏と申すはいかなる心にて候ふや。しかればなにと弥陀をたのみて報土往生をばとぐべく候ふやらん。これを心得べきやうは、まづ南無阿弥陀仏の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。そもそも南無阿弥陀仏の体は、すなはちわれら衆生の後生たすけたまへとたのみまうす心なり。すなはちたのむ衆生を阿弥陀如来のよくしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたへましますなり。これを衆生に回向したまへるといへるはこの心なり。されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまふ法なるがゆゑに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これすなはちわれらが往生の定まりたる他力の信心なりとは心得べきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[明応六年五月二十五日これを書きをはる。八十三歳]
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1126頁)


 南無阿弥陀仏とはどういう意味なのか、またどのように阿弥陀如来を信じるならば浄土に往生することができるのか、それを心得るためには、まず南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく心得なければなりません。
 南無阿弥陀仏とは、たすけると仰せになるみ仏に、おたすけくださいとおまかせする信心であります。そのようにおまかせする衆生を、阿弥陀如来はよくお知りになって、この上ない功徳を与えてくださいます。このことを「衆生に回向してくださる」というのです。
 そこで、阿弥陀如来におまかせする信心(機)の衆生を、如来がおたすけくださる(法)ので、これを機法一体の南無阿弥陀仏というのです。これが私たちの往生が定まる他力の信心であると心得るべきです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』より