高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

十七日拝読 一流安心章 四帖第十四通

十七日拝読 一流安心章 四帖第十四通

 一流安心の体といふ事。
 南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)といへり。まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず。このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。あなかしこ、あなかしこ。
  [明応七年四月 日]
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1186頁)


 浄土真宗の安心というのは南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞き開くことです。
 善導大師はこの六字を、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故 必得往生」と釈されています。「南無」とは帰命ということであり、帰命とは、衆生が阿弥陀如来におたすけくださいとおまかせすることです。また発願回向とは、おまかせした衆生を如来がおさめとってお救いになることです。これはそのまま「阿弥陀仏」の四字の意味でもあります。
 そこで私たちのような愚かなものは、どういう心をもち、また阿弥陀如来をどのようにたのみたてまつればよいのかというと、自力にたよることをやめ、後生をおたすけくださいと二心なく阿弥陀如来におまかせするのです。そうすれば、浄土に往生することは疑いありません。
 このように、「南無」の二字は、衆生が阿弥陀如来をたのむという機をあらわしており、「阿弥陀仏」の四字は、たのむ衆生をおたすけくださる法をあらわしているから、機法一体の南無阿弥陀仏というのです。このようないわれがあるので、私たちの往生は南無阿弥陀仏の六字にあらわし尽くされているのです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』より