高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

二二日拝読 男子も女人も章 五帖第四通

二二日拝読 男子も女人も章 五帖第四通

 そもそも、男子も女人も罪のふかからんともがらは、諸仏の悲願をたのみても、今の時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては、なかなかかなはざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申したてまつるは諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人をわれたすけんといふ大願をおこしましまして、阿弥陀仏と成りたまへり。「この仏をふかくたのみて一念御たすけ候へと申さん衆生を、われたすけずは正覚ならじ」と誓ひまします弥陀なれば、われらが極楽に往生せんことはさらに疑なし。このゆゑに、一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて、わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし。このうへには、なほなほたふとくおもひたてまつらんこころのおこらんときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいはず、ところをもきらはず念仏申すべし。これをすなはち仏恩報謝の念仏と申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1191頁)



 男も女も、罪の深いものたちは、諸仏のお慈悲をたよりにしても、今は末法の世なので、諸仏の力ではとても救われません。
 ところが、阿弥陀如来は、十悪五逆の悪人をも救うというすぐれた願をおこし、み仏となられた方です。「私を深くたのんで二心なく信じる衆生をたすけることができなければ、私はさとりをひらかない」と誓われた阿弥陀如来ですから、私たち衆生が浄土に往生することは疑いありません。ですから、いかに自分の罪が深くとも、一心に阿弥陀如来におまかせして、おたすけくださいと疑いなく信じたものは、十人は十人、百人は百人、みな浄土に往生することはまちがいありません。
 このように信心が決定した後に、尊いことだと思う心がおこったときは、時や所に関わらず、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏するべきです。これを仏恩報謝の念仏と申すのです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』より