高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

二三日拝読 一念大利章 五帖第六通

二三日拝読 一念大利章 五帖第六通

 一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、『和讃』(正像末和讃・三一)に聖人(親鸞)のいはく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」。この和讃の心は、「五濁悪世の衆生」といふは一切われら女人悪人のことなり。さればかかるあさましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんものをば、かならずすくひましますべきこと、さらに疑ふべからず。かやうに弥陀をたのみまうすものには、不可称不可説不可思議の大功徳をあたへましますなり。「不可称不可説不可思議の功徳」といふことは、かずかぎりもなき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。このこころをまた『和讃』(正像末和讃・一)にいはく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」(意)といへり。「摂取不捨」といふは、これも、一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにをさめとりて、信ずるこころだにもかはらねば、すてたまはずといふこころなり。このほかにいろいろの法門どもありといへども、ただ一念に弥陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生すべきこと、ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1192頁)



 阿弥陀如来を疑いなく信じるものに、この上ない功徳が与えられることを、親鸞聖人は和讃に、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」とお示しになっています。
 私たちは、一生、悪をつくって生きてゆかねばならない凡夫でありますが、一心に阿弥陀如来に帰命し、後生をおたすけくださいとおまかせする衆生を、かならずお救いくださることは疑いありません。このように疑いなく如来を信じる衆生に、はかりしれない功徳をあたえてくださるから、過去・現在・未来にわたる罪のさわりもただちに消えて、浄土に生まれてさとりをひらく仲間に入るのです。そのことをまたご和讃に、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆえ 等正覚にいたるなり」とお示しになっています。摂取不捨というのは、如来を信じる衆生を光明の中におさめとってお捨てにならないということです。
 このほかさまざまな教えがあっても、弥陀をたのむ信心一つで浄土に生まれることを、決して疑ってはなりません。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』より