高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

二九日拝読 経釈明文章 五帖第二一通

二九日拝読 経釈明文章 五帖第二一通

 当流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまゐらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまゐらせて、御たすけ候へと申さん衆生をば、十人は十人百人は百人ながらことごとくたすけたまふべし。これさらに疑ふこころつゆほどもあるべからず。かやうに信ずる機を安心をよく決定せしめたる人とはいふなり。このこころをこそ経釈の明文には「一念発起住正定聚」とも「平生業成の行人」ともいふなり。さればただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこころうべし。このほかには、弥陀如来のわれらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもひて、行住坐臥につねに念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1206頁)



 浄土真宗の安心は、自力のはからいを捨て、いかに自身の罪が深くとも、その身をみ仏におまかせし、阿弥陀如来を一心にたのみたてまつることです。そのようにおたすけくださいとおまかせする衆生を、十人は十人、百人は百人、ことごとく如来はお救いくださいます。このことはまったく疑いありません。このように信じるものを、信心を決定した人というのです。
 このことを、経典や論釈の文には、「一念発起住正定聚」とも、「平生業成の行人」ともいわれています。ですから阿弥陀如来を、一心に深くたのみたてまつることが肝要であると心得なければなりません。そして信心を得た後は、み仏が私たちをお救いくださるご恩の深いことを思って、いついかなるときも念仏すべきです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』