高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

三一日拝読 大聖世尊章 三帖第四通

三一日拝読 大聖世尊章 三帖第四通

 それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。たまたま仏法にあふことを得たりといふとも、自力修行の門は、末代なれば、今の時は出離生死のみちはかなひがたきあひだ、弥陀如来の本願にあひたてまつらずはいたづらごとなり。しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことを得たり。このゆゑに、ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべきなり。しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。あら、たふとや、あら、ありがたの阿弥陀如来や。かやうの雨山の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞや。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声にとなへて、その恩徳をふかく報尽申すばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  [文明六年八月十八日]
(『浄土真宗聖典─註釈版─』1140頁)


 人間のはかなりようすをよくよく考えると、命あるものはかならず死にいたり、盛んなものも最後には衰えてしまうのが世のならいです。それなのに、むだに日を過ごしているのは嘆かわしいことです。
 釈尊から五逆十悪の提婆にいたるまで逃れることができないのは、無常のことわりです。私どもは、受けがたい人間界に生を受け、聞きがたいみ仏の教えに遇うことができましたが、今は末法の世ですから、自力の修行によっては迷いの世界を出ることができず、ただ阿弥陀如来の本願によるしかありません。今、その教えに遇うことができたのですから、浄土を願い如来をたのみ、信心を決定して念仏を申すべきです。しかし世間の人は、信心がなくても、南無阿弥陀仏と念仏しさえすれば浄土往生ができるように思っていますが、それは大きな心得違いです。
 南無阿弥陀仏の六字とは、阿弥陀如来をひたすらたのみたてまつる人を、如来はお救いになるといういわれをあらわされているのです。ですから自力にたよることをやめ、一心に阿弥陀如来をたのみ、二心なくおまかせするならば、如来はその人を光明を放っておさめとってくださるのです。このことを摂取の光益といい、不捨の誓益ともいうのです。このように阿弥陀如来の光明におさめとられているのですから、この世の命が尽きたら、ただちに浄土に往生することは疑いありません。このほかに別の仏をたのみ、また他の行や功徳をおさめても、なんのやくにもたちません。
 ああ、なんと尊くありがたい阿弥陀如来でしょう。その広大なご恩に報じるには、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏して、仏恩を報じるばかりであると心得るべきです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』