高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

四日拝読 雪中章 一帖第五通

四日拝読 雪中章 一帖第五通

そもそも、当年より、ことのほか、加州・能登・越中、両三箇国のあひだより道俗・男女、群集をなして、この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとほり、いかがと心もとなく候ふ。そのゆゑは、まづ当流のおもむきは、このたび極楽に往生すべきことわりは、他力の信心をえたるがゆゑなり。しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。一大事といふはこれなり。幸ひに五里・十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこころざしは、いかやうにこころえられたる心中ぞや。千万心もとなき次第なり。所詮以前はいかやうの心中にてありといふとも、これよりのちは心中にこころえおかるべき次第をくはしく申すべし。よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。そのゆゑは、他力の信心といふことをしかと心中にたくはへられ候ひて、そのうへには、仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こころざしをもいたすべきものなり。これすなはち当流の義をよくこころえたる信心の人とは申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明五年二月八日]
 (『浄土真宗聖典─註釈版─』1090頁)

 このところ、加賀・能登・越中などの国から、僧侶も在家の人も、男も女も、たくさんの人がこの吉崎に参詣されますが、その人たちがどういうお気持ちなのかと気がかりなことです。
 というのは、浄土真宗のみ教えでは、このたび浄土に往生することができるのは、他力の信心を得ることによるからです。しかし信心をたしかに得た人は見あたりません。そうしたことで、どうして浄土に往生することができましょうか。五里十里という遠い道をなんとか踏み越えて、この雪の中を参詣されたのは、どういうお気持ちなのだろうかと、はなはだ気がかりなことです。
 そこでこれからどのように心得なければならないかというと、他力の信心のいわれをしっかり心にいただき、そのうえで、仏恩報謝のためにいつも念仏すべきなのです。このように心得たならば浄土往生は定まるのです。その喜びからであれば、師とされる僧侶の寺へ出向いて施しをなさるのもよいでしょう。このような人を浄土真宗のみ教えをよく心得た信心の人というのです。
『御文章 ひらがな版 拝読のために』