高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

十二日拝読 唯能常称章 三帖第六通

十二日拝読 唯能常称章 三帖第六通

 それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ「南無」といふ二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。また発願回向のこころなり。これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆゑに、「信心歓喜」といふは、すなはち信心定まりぬれば、浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり。このゆゑに弥陀如来の五劫兆載永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまふことのありがたさ、たふとさをおもへばなかなか申すもおろかなり。されば『和讃』(正像末和讃・五一)にいはく、「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」といへるはこのこころなり。また『正信偈』にはすでに「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」とあれば、いよいよ行住坐臥時処諸縁をきらはず、仏恩報尽のためにただ称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明六年十月二十日これを書く。]

(『浄土真宗聖典─註釈版─』1145頁)


大意
 南無阿弥陀仏とはどういう意味かといえば、「南無」には帰命と発願回向との二つの意味があり、また「南無」には願、「阿弥陀仏」には行の意味があります。ですから、自力のはからいを捨て、二心なく阿弥陀如来に帰命するそのときに、如来は光明を放って行者をおさめとってくださるのです。それが阿弥陀仏の意味であり、また発願回向の意味です。そこで南無阿弥陀仏という六字は、私たちが浄土に往生できる他力の信心のいわれをあらわした、み仏の名前であるとわかるのです。

『御文章 ひらがな版 拝読のために』より