高槻一念寺

高槻市下田部町のお寺 (浄土真宗本願寺派)です

配布法話 菩薩の願い

一念寺門前に設置している配布法話を更新しました。
お近くの方は手に取って見てくださいね。
【本文】

 七月七日は七夕(たなばた)です。いろいろなところに笹(ささ)が飾(かざ)られます。その笹(ささ)には願(ねが)い事(ごと)が書かれた短冊(たんざく)が結(むす)ばれています。

 子どもたちの願いを見てみると、サッカー選手(せんしゅ)に成りたいとか、学校の先生に成りたいとか、将来(しょうらい)の夢(ゆめ)が書かれていたりします。中には、ゲームがほしいとかお金持ちになりたいというような、少し現金(げんきん)な願いも書かれていたりします。
 少し先の理想(りそう)の未来を思い描くことが「願う」ということなのでしょう。願いを持つことは、人間が前向きに生きるためには必要なことなのでしょうね。
 子どもたちの願いは可愛くて応援したくなります。才能と努力が伴えば、願いが叶うかも知れません。
 しかし、人間は時に恐ろしい願いを持つことがあります。あの人のものを奪いたいとか、嫌いな人には不幸になってほしいとか、もっと大きなものになると世界の支配者に成りたいと願って戦争をする人さえいるのです。それもまた人間の願いです。
 人間の願いには、いつも中心に「自分」がいます。自分が幸せであることが大前提にある自己中心的な願いです。
 それに対して、菩薩(ぼさつ)さまの願いは常に自分ではない誰かのための願いです。苦しんでいるもの、悲しんでいるものを、どうにかして楽にしてあげたいと菩薩さまは願っています。いつも中心に他者がいる他者中心の願いです。
 讃仏偈(さんぶつげ)というお経には「仮令身止諸苦毒中我行精進忍終不悔(けりょうしんししょくどくちゅうにんじゅうふけ)」とあります。
 「あなたを救える仏になるためなら、どんな苦難にこの身を沈めたとしても、耐(た)え忍(しの)んで修行(しゅぎょう)にはげみます。私がどんなにボロボロになっても、決して後悔(こうかい)することはありません」という意味です。「あなたのためなら私はどうなっても構(かま)わない」と、この私の幸せを一心に願ってくださったのが、後に阿弥陀仏(あみだぶつ)に成る法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という菩薩さまでした。
 法蔵菩薩はその願いを成就(じょうじゅ)させて阿弥陀仏(あみだぶつ)に成られました。菩薩の願いは「ついに私は、あなたを救える仏に成ったよ。あなたがどんな人間であっても救えるようになったんだよ!」という阿弥陀仏の叫び声となって、今この私に聞こえ届いています。その声が南無阿弥陀仏です。菩薩の願いは、私に聞こえ、私の口からあふれるお念仏(ねんぶつ)の声に成ったのでした。
南無阿弥陀仏 一念寺若院 保田正信